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進学は自由

 元SEALDs 諏訪原健「奨学金借金1千万円の僕が嫌悪する安倍首相のキラキラ貧困対策」 (1/3) 〈dot.〉|dot.ドット 朝日新聞出版

 

以下、掲示全文。

「飯を食っていくことを考えろ」

 高校3年生のとき、進路相談をするために、親に自分の考えとか夢とかについて話したときに返ってきた言葉だ。今でも人生における重要な選択の度に、この言葉が頭に浮かぶ。

 何度も何度も浮かんでくるので、「本当にそれでいいのか」と誰かに問い詰められているような気持ちになる。何となくこの言葉が好きではない。言葉の内容自体は、別に当たり前のことだ。

 うちは裕福な家庭ではなかったので、大学に行くなら多額の奨学金を借りる必要があった。大学を出ても食いっぱぐれないように、緻密に計算をしながら、人生設計しないと路頭に迷ってしまう。もしも自分が親だったら、似たようなことを言ってしまったかもしれない。

 でも当時の僕は、「金がないと夢さえ見れないのか」と感じた。どこに生まれるかなんて選べるわけじゃないのに、それによって人生の自由が制限されてしまう。そして自分には、自分について決定する権利すらない。そう思うと、何だか空しいし、悔しかった。

 結局は半ばけんかをしながら、ある程度好きにさせてもらった。その代償というと変かもしれないが、奨学金の返済額は学部時代だけで1千万円を超えた。だからといって、別にこの社会が憎いなんて思っていない。去年くらいまで奨学金や自分の境遇について人前で話すこともなかった。別に口に出したところで自分の人生が良くなるわけでもないし、この世の中で受け入れてもらえるとも思わない。できるだけ考えないようにしておいたほうが、精神衛生にもいい。ただ現実に適応して、自分の損得で動く方がずっと楽だ。

 でも僕は同じような思いを、自分より下の世代にはしてほしくないなと思っている。

 もっと身近な存在でいえば、年の離れた妹にはそういう思いをしてほしくないなと思っている。勝手な心配なのかもしれないけれど、古くさい価値観が染み付いた田舎に生まれたから、「どうせお嫁に行くんだから、借金してまで勉強することはない」とか思われて、僕みたいに多額の奨学金を借りてまで好きにさせてはもらえないんじゃないかと思う。

仮に僕自身の人生はうまくいったとしても、誰かが自由に生きる道を制限されるような社会だとしたら、それは変えないといけないと思う。

 そんなことを漠然と思っていたこともあって、大学では児童養護施設での学習支援ボランティアを始めた。子どもたちのバックグラウンドはそれぞれだから、一概には言えないんだけど、学習のときに常に考えていたのは、自分らしい人生を生きるために1ミリでも役立てばいいなということだった。結局のところ、役に立つかどうかなんて、人生を後から振り返ってみないとわからない。だから自己満足でしかないのかもしれない。それでもできることをやったつもりだ。

 そういうことと同時に、僕は政治や社会に対しても、意見を言わないといけないと思っている。子どもが自由に生きていけるかどうかが、その人の境遇とか、人との出会いとか、運にかかっているような状況を是認してしまいたくはない。残念ながら、今の政治は、個人に責任を押し付けるようなものになっているように思えてならない。

 2016年11月8日に、子どもの貧困対策のために設置した「子供の未来応援基金」の1周年を記念して、安倍首相が出したメッセージに次のようなフレーズがあった。

“あなたが助けを求めて一歩ふみだせば、
そばで支え、その手を導いてくれる人が
必ずいます。

あなたの未来を決めるのはあなた自身です。
あなたが興味をもったこと、好きなことに
思い切りチャレンジしてください。
あなたが夢をかなえ、活躍することを、
応援しています。”

 困難な状況に立たされた子どもに対して、こんなキラキラした、それでいて見殺しにするような言葉をかけることは、僕にはできない。本当に子どもたちのためを思っているのだとすれば、民間からの募金に頼るのではなく、政府が責任を持って安定的な予算を確保すればいい。誰もが「思い切りチャレンジ」できるように政治のあり方を見直していけばいい。この基金で、1年間に集まった寄付金は総額7億円弱。決して無理な話ではないと思う。

今年度からは、給付型奨学金が設けられることになった。それ自体は大きな前進だけれども、その額は大きいとは言えないし、成績が要件に入っていることに大きな疑問を覚える。結局は、奇跡的に勉強を頑張れた人しか救われない。全ての人にチャンスを与えるという発想はできないものだろうか。

 今の政治は「国家」を強くすることには一生懸命だが、この社会で暮らす人々の生活は後回しのようだ。この間、安倍政権は特定秘密保護法や安保法制を、むちゃくちゃともいえる手段で、精力的に推し進めてきた。今度は共謀罪まで作ろうと意気込んでいるし、憲法改正への熱意だって相当なものだ。その熱量がなぜ、力なき人々の方へは向かないのだろうか。政権が代わらなければ、どうしようもないのではないかとすら思えてくる。

 もちろん「政権が代われば、社会が良くなる」なんて簡単に物事を考えているわけではない。それどころか実際のところ、政治家に対してそんなに期待もしていない。どんなに頭のいい人でも、今の社会状況を的確に捉え、最良の処方箋を用意することなどできるはずがない。

 そうだとしたら「最良の処方箋」は、多くの人が声を上げて、議論して、できる限り納得できるような形を目指して、叩き上げていくしかないのではないだろうか。そのために、誰でも政治にものを言っていくことは重要だろうし、その瞬間から社会は違う方へ、少しずつだが確かに動いていくと思う。生活には全然余裕がない。でもそんなことを思っているから、僕自身は政治に関わっている。(諏訪原健)

 

諏訪原 健(@swa_swa_swatch)さん | Twitter
 

このSEALDsの元メンバー、筑波大学大学院生の諏訪原健氏の言い分には甘えがある。

 

そもそも奨学金の支給に成績要件が入ることは当然ではないか?

成績の良くない学生に奨学金を給付しても、その学生は学習意欲がなく、奨学金が有効に使われない。

希望する全員に奨学金を給付するなら、限りある国の財源は必要とされるところに使われない。

そうすると左派は自衛隊予算を削減しろと言うが、国家を守る自衛隊の予算は、朝鮮半島の不安定、中国の活発な行動を考えると削れどころか予算を増やさないといけないだろう。

 

また国家を良くすることの何がいけないのか?

個人が強くなっても景気が良くなることはない。景気が良くならないと収入は増えない。

彼らは「こころの幸せ」などと言うが、収入に関係なく「こころの幸せ」を実現できるのは自給自足の人だけだ。

 

そもそも、義務教育でないのだから、大学に行きたいなら学費や生活費の調達は自己責任である。その調達ができないなら、一度就職してお金を貯めて大学に進むか、大学に進まない選択肢もある。

そこを「格差」と叫び、奨学金の給付の要件に成績を入れるなと言うことは可笑しい。

 

SEALDsの真実

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